幸せは本人にのみ帰属し、幸せの本体がどこかにあるものではない
これは箸である、と認めることは100人いれば100人可能ですが、これは幸せである、または、不幸である、と認識することは100人いて100人が同じように感じることはできない、ということです。
ということは、同じ事象が起きた時に落ち込むか、感謝するか、という選択は自分に委ねられていて、今自分が幸せに感じていることも、不幸に感じていることも自分の選択の結果であるということになります。
すごく、納得のいく話です。
これから先の人生を幸せに生きることができるかはもちろん自分次第です。
過去についてはどうでしょうか。
過去、その出来事が起こった時に不幸に感じる自分がいた事実は、変えられないかもしれません。
ですが、不幸に感じた自分はその後どう行動したのか。
不幸な気持ちを時が解決してくれるのを待ったのか、自分にできることはしてみよう、と前向きに捉えて見たのか。
この2択、どちらを選ぶかで回復力が随分違うと思います。
これから自分に起こることは、起こった瞬間に過去になり、その時の自分の選択によってその事象が私の幸せな思い出になるのか、不幸な思い出になるのかの分類ができます。
感情は、なくすことはできません。
その感情を抱いた時に、抱いたままの感情を行動に表してしまう人は幼稚というと幼児に失礼ではないかといいたくなるほど、未熟です。
私は以前、感情を無くしてAIのようになりたいと思っていました。
その話をした時ある方に、
「感情はコントロールすればいい」
と言われました。
ハッとしました。
感情は、抱くだけで表現しなければ誰にも知られることのない自分だけの問題です。
どう表現するのが適切かを考えることは私にとっては趣味のようなもので、それにより相手の感情や行動を変えることができるのがとても面白いな、と思っています。
全ては自分の捉え方次第 と、言葉でいうのは簡単ですが、このように裏付けとなるような話があるとより一層理解して実感することができます。
それまで怒りっぽかった私は、それから自分に非はないか、怒っているのは自分の都合である、と考えるようになりました。
逆に、相手が怒っているのも相手の都合で、感情をコントロールするということを知らないんだな、かわいそうに、と思うことで怒られても必要以上に申し訳なさを感じることはなくなりました。
すごくありがたい本で、ベースはお釈迦様の言っていることのようです。
本当はもっといろいろ書きたいことがありますが、一つのトピックでこれだけの文字数になってしまうのと、繰り返し読むことで理解が深まるであろうこともありますので、定期的にTwitterで発信していけたらと思います。
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